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◆◆ ブラストの響きを追って(その5)◆◆
バックの音は、1975年12月に録音した夕張線のD51 貨物列車です。 項目をクリックして下さい。
【陣 場】・【矢立峠】・【青 森】・ 【急行 十和田5号】 【 陣 場 】 翌朝、6時少し前に目を覚まし窓を開け外を見る。旅館の屋根から大きなツララが何本も下がっている。その向こう50m位の所にやはり鉄橋があり、そのすぐ脇にトンネルの穴が開いている。 暫く列車の来るのを待っていたがなかなか来ない。寒くなったので窓を閉めたとたん列車が鉄橋を渡る音がしたので慌てて窓を開ける。DF50型機関車は鉄橋を渡りまさにトンネルに入るところだった。 急いでシャッタ−を切る。436列車だ。その少し前に上り特急“白鳥”が通過したのだが気が付かなかった。 この後しばらく列車が来ないので布団の中に入ってうとうとしていた。 8時半頃、DLの牽く422列車が通過した。この列車は陣場駅で401列車と627列車と交換する。つまり、あと15分程で401列車が、続いて627列車がここを通過するはずである。 ダイヤによると2本ともディ−ゼル機関車の牽引であるが一応カメラを構えることにする。暫くするとDD51の牽く401列車がトンネルを出てきて鉄橋を轟音をたてて渡っていった。10分位で627列車が来る。この列車もディ−ゼル機関車牽引なので気楽に構えていた。 しかし山の向うでトンネルに入る汽笛が聞こえた。 蒸気機関車だ。ダイヤだとディ−ゼルのはずだが、ダイヤを見間違えたのだろうか。とにかくSLが来る。列車はトンネルをくぐり抜けるとすぐに鉄橋を渡り視界から消えてしまうので、シャッタ−チャンスは一度しかない。 胸がドキドキする。トンネル内に響き渡るブラスト音が次第に大きくなる。それに合わせるかのように胸の鼓動も大きくなる。 トンネルから蒸気機関車が出てきた。C61だ。かなりのスピ−ドである。ここは登り勾配なので白煙が勢いよく吐き出している。 夢中でシャッタ−を押した。カメラから目を離すと8両程の客車が轟音をたて通り過ぎていった。15分程でD51の牽く上りの貨物列車が短い汽笛を鳴らしトンネルに入っていく。上り列車にとって、ここは下り勾配となるため絶気運転の軽い足取りで走り抜ける。この後は、暫くの間SLは通過しないので朝食を済ませ矢立峠に向かう。
【 矢立峠 】 矢立峠は秋田県と青森県との県境にある峠で貨物列車は勾配がきついために後部に後押し用の機関車を2両つけて峠越えをするものもある。 矢立温泉からバスに乗り地図を頼りに適当なバス停で降りた。風は止んでいるがまた雪が降り始めた。峠の中腹にある国道を暫く歩き、適当な所で列車を待つことにする。あまり良い撮影位置ではないが初めての場所でもあるし、この雪では仕方がない。寒くて歩くのも嫌になっている。 40分程、雪の中で待っていたが列車は1本も来ない。手が凍え感覚が全くなくなってしまった。12時近くになって微かに汽笛が聞こえた。やっと来た。 だが手が凍えていうことをきかない。やっとのことでカメラを構えるが眼下の線路は途中で白くなった杉林の中に消えているため、いつ機関車が来るか分からない。 おまけに雪も激しくなってきた。いつ蒸気機関車が来てもいいように息を殺してシャッタ−ボタンに手を掛けていた。 どのくらい経ったろうか、黒いものと白いものが動くのが見える。蒸気機関車だ。そう思った瞬間、シャッタ−を押してしまった。少し早くシャッタ−を押してしまった。もう一枚撮影しようとカメラの巻き上げレバ−を操作したが手が凍えて動かすことができない。あせった! その間に先頭の機関車は杉林の中へと消えてしまっていた。あまりにも周りが白と黒の世界で気が付くのが遅かったし慌ててしまった。悔しかった。でもすぐ気を取り戻し後部補機の蒸気機関車を狙うことにする。長い貨車の後にはガッチリと2両の蒸気機関車がつながれ懸命に列車を押し上げ峠に挑んでいる。 秋田杉に積もった粉雪が列車の振動で白いカ−テンのように落ちてくる。
列車の後には白煙だけが残っていた。列車ダイヤによると、まだここを通過する貨物列車があるが、どうやら今日は正月なので運休が多いのだろう。いくら待っても来ない。仕方なく国道に戻りバスを暫く待って碇ケ関駅に向かう。 碇ケ関駅では13時24分発、C61の牽く444列車を撮影できるはずである。 バスで碇ヶ関に向かうと先程の峠では雪が降っていたが、次第に小降りになってきた。碇ケ関駅に着くと雲一つない青空が広がり、比較的暖かい感じもする。北国の冬の天気は実に目まぐるしい。 駅から線路脇を秋田方面に100m程いったところで列車を待つことにする。13時20分、定刻より早くC61の牽く列車が到着。ダイヤを見ると、この駅で下り貨物列車2099列車と交換することになっている。しかし今日は運行しているか運休か分からない。取りあえず後ろを振り返えると、D51の牽く貨物列車が目の前に迫っていたので、慌ててカメラを向けシャッタ−を押す。貨車の後ろには後押しのD51が1両ついている。
峠越えを終えた機関車は意気揚々として軽い足取りで駅に向かっていった。 貨物列車が駅に停車して2〜3分後の、定刻13時24分、青空にC61の出発の汽笛が響いた。発車だ!。機関車は茶色の煙りと白煙を青空に吹き上げ矢立峠を越えるためグイグイと加速していき轟音を響かせ目の前を通過する。444列車は客車のゴトゴトという音を残して峠に消えて行った。 今回のSL写真旅行の予定はここまでで、今晩の夜行で東京に戻るため青森に向かう。碇ケ関駅に引き返し駅の周りをブラブラするが、どこにでもある平凡な静かな町である。特に今日は正月なので余計静かなのだろう。駅に戻りベンチに腰を掛け、碇ケ関駅発14時31分の弘前行きのディ−ゼルカ−を待っていた。
【 青 森 】 14時59分、弘前駅に到着し、すぐに15時13分青森行きの635列車に乗り換える。弘前駅も雪がひどく町並みも霞んで見える。ここからも五能線に乗ることができるので、初めての駅だが何となく懐かし感じもする。 16時17分、2分遅れで黄昏迫る青森駅に到着。 雪がチラチラ降りている。構内放送は津軽線、東北本線、青函連絡船の案内をする。多くの乗客はその声につられるようにして17時発の青函連絡船乗り場の方に急いでいる。いくつもの荷物を両手に抱えた婦人。遅れまいと、その荷物に必死につかまって走っている子供。ほっかむりをし大きな風呂敷を背負った老人。長靴と、もんぺを履き半纏姿の行商人らしい人。 人々の後ろ姿からも本州最北の雰囲気が漂っているようだ。 誰もが無口で、ただ駅の出口や連絡船乗り場に急いでいる。袴線橋を渡って行くと左手には連絡船乗り場へ、右手の階段を下りると出口である。すぐ側には青函連絡船が明かりを灯している。 デッキには何人かの乗客の姿も見える。あの船に乗ればあこがれの北海道だ。いつかきっと青函連絡船で北海道に行き、雪の中を走る蒸気機関車の写真を撮りに行いきたいと思う。 私は、青森駅19時00分発、上野行き夜行急行“十和田5号”で上野に向かうので、暫く駅前をブラブラすることにする。荷物をロッカ−に預けて駅を出ると、雪は止んでいたが相変わらず肌を刺すような潮の臭いのする北風が吹いている。 駅から垂直に伸びる通りはかなりの繁華街である。ア−ケ−ドの下には飲食店、みやげ物店、雑居ビルなどが軒を連ね、ちょっとしたショッピング街となっている。 歩いている途中で連絡船の出港の汽笛が聞こえた。ドラの音も聞こえたような気がする。青森は雪と潮の臭いと汽笛の似合う町なのかもしれない。いや、路地にはイカ・カニ・活魚などを扱った郷土料理の店も多いので、雪と潮の香りと汽笛と魚介類の似合う町なのかもしれない。 正月なので全ての店が開いているわけではないが営業している店の前を通り過ぎると、魚やイカなどを焼く香ばしい臭いがする。賑やかな話し声や有線放送から流れる演歌も聞こえる。お腹も空いてきた。郷土料理を食べ、熱いお酒が飲みたかったがもう残金が少ないので生唾を飲んで我慢した。 1時間程、駅周辺を歩いた後、駅に戻った。帰りの急行“十和田5号”の指定券は既に予約してあるので早く行って並ぶ必要はない。ホ−ムに行っても寒いので待合室でぼんやりしていた 。町の中もそうであったが待合室もかなり混んでいる。そういえば、今日は1月2日で正月を故郷で過ごした人達が北海道や東京方面に帰る時期である。 今夜の列車で東京に帰り、明日は一日休んで4日から仕事のパタ−ンが多いのだろう。殆どが家族の見送りを受け土産物を入れた紙袋を前にして楽しそうに話しこんでいる。 18時40分になったのでホ−ムに行くことにする。ホ−ムに出ると既にブル−の車体の急行“十和田5号”が入線していてチラホラ乗客も乗り込んでいる。待合室では気が付かなかったが、いつの間にか雪がかなり降りだして青森の町の光も霞んで見える。 座席指定券の確認をし、7号車に乗り込み自分の座席番号6Dを捜す。車内は既に4割程の乗客が座っており、既にお酒を飲んでいる人、ゆっくりくつろいでいる人、網棚にふるさとの土産物を乗せている人など静かではあるが発車間際の慌ただしさがある。 自分の席、窓際の6Dを見つけたが、そこには既に家族らしい4人が座っていた。一瞬、間違えたのかと、再び指定券を取り出し確認してみるが確かに7号車6Dである。列車も間違いない。恐る恐る座っている人に尋ねる。「すいません。そこは私の席だと思うのですが。」と指定券を見せる。 「あっ、どうもすいません。娘が東京に行くので家族で見送りにきました。すぐ退きます。」その娘の父親らしい人が恐縮そうに答えた。 私の座るべく窓際の席に父親、反対側の進行方向窓際には20歳位の娘さん。その隣にお母さん。お母さんの前には弟らしい人が座っている。「どうぞ。結構ですよ。まだ時間がありますし、自分はホ−ムでそばを食べていますから。」と言って私は網棚に荷物を乗せるとホ−ムに出た。 暫くの家族の別れである。ゆっくりさせてやりたかった。特に、この数日間、自分も寒い雪の中で一人旅だったので寂しさが分かる。私も、早く家に帰りたかった。ホ−ム中ほどの立ち食いソバ屋で、テンプラそばを頼み、ゆっくり周りを見ながら食べることにした。 暗闇の中に船内の明かりを灯した大きな青函連絡船が見える。船の名前は判らないがマ−クが入ったオレンジ色の連絡船の煙突がライトアップされ夜空に浮かんで見える。その周りを白く輝いた雪が舞っていた。船尾には屋根に雪を乗せた貨車がDE10で連絡船に積み込まれている。 時折、強く降る雪が水銀灯の光を受け、白く輝きながら連絡船を包んでいる。先程の待合室は割合混んでいたが、ホ−ムの上の人影はまばらである。多くの人は連絡船に乗船したのかもしれない。 【 急行 十和田5号 】 18時50分。出発時刻が近づいたので列車に戻ると、既に娘さんだけ残して3人の家族はホ−ムに降りていた。列車の窓をいっぱい開けて家族と娘さんは向き合っている。お互いの顔を見ているだけで会話はない。 やがて発車のアナウンスとベルが構内に響く。 「じゃあ体に気をつけて。」 「元気でな!」と両親が声を掛ける。弟は黙って姉を見ていた。娘さんもただ頷くだけである。雪がまた激しく降ってきた。 列車はカン高い汽笛を鳴らすとガクンと揺れ、ゆっくりと青森駅を発車した。最初に母親が列車の速度に合わせるように歩きだした。父親と弟もそれに続いて一緒に歩き出した。 やがて列車のスピ−ドが上がるにつれてお互いの距離が離れてゆく。 誰も声を出さなかった。ただ手を小さく振っているだけである。 心の中で別れを言っているのがその表情から伝わってくる。娘さんも後ろを見ながら手を振っていた。 家族の姿が見えなくなっても彼女は窓も閉めずに後方を見ていた。列車はスピ−ドを上げホ−ムの端に来た時、その娘さんは突然窓から身を乗り出し、外に向かって千切れんばかりに手を振り始めた。 一言も声はなかった。手を窓から一杯に差し出し、ただ夢中で駅の方に向かって手を振っていた。 ホ−ムの端に恋人がいたのだろうか、それとも住みれた青森の街に惜別をしていたのか、遠くなった家族に手を振ったのか、私にはわからなかった。 列車が駅を離れても娘さんは後ろを向きながら暫く手を振るのを止めなかった。やがて列車が青森の灯から遠く離れた時、娘さんは諦めたかのように席に腰を降ろし下を向いてハンカチで顔を覆いだした。 嗚咽が聞こえた。声に鳴らない声が聞こえた。 開け放された窓からは容赦なく雪が舞い込んで娘さんの頭を白くしていく。 「もう、窓を閉めていいですか?」私は暫くして遠慮がちに尋ねた。 娘さんは軽く頷くだけである。静かに窓を閉めた。娘さんは相変わらずハンカチを顔に当て肩を震わせて泣いている。 その姿を見て自分も悲しくなり涙がでてきた。 少しの間我慢していたが涙が溢れそうになったので自分は席を立ちデッキに行った。 デッキに行くと今まで押さえていた涙がいっきに溢れ出た。理由など分からなかった。ドアの外を流れる青白い雪。雪の中にポツンと立つ街灯。ゴトン、ゴトンと響く単調なレ−ル音。時々聞こえるカンカンという踏切り音。どれもが悲しく聞こえた。 娘さんの列車から身を乗り出して手を振る姿を思い出すだけで涙が溢れてくる。 なぜか、娘さんが、可哀想でならなかった。 20分程デッキにいただろうか涙を乾かしてから席に戻った。娘さんはハンカチを顔から離していたが下を向いたままである。暫くして娘さんは赤くなった目をした顔を上げ「すみません。」と小さな声で私に言った。 「いや、いいんですよ。これから東京ですか?」 「はい。」 「青森の方ですか?」 「はい。」 「じゃあ、お正月を故郷で過ごし4日からまた仕事ですね。」 「いえ、初めて東京に行くんです。知り合いが鎌倉にいるのでそこで働きます。」 「そう、それは大変ですね。」 「ええ。」 娘さんは多くを語らなかった。語る心境ではないのが痛いほど解る。住み慣れた青森。一緒に過ごした家族。そして恋人?。それ等と今日から別れて暮らすのだ。もう私も聞くのを止めようと思った。少しの間お互いに何も喋らず私は外を流れる雪を眺めていた。娘さんは下を向いたままである。 暫くすると娘さんは震えだした。また泣いているのかと、そっと覗くとどうも今度は寒くて震えているらしい。 彼女は進行方向に向かって窓際に座っているので、窓の隙間から冷たい風がもろに彼女にあたるのだ。 おまけに車内の暖房もまだ十分効いていない。 「寒いですか?」 「す・こ・し。」 彼女は網棚に暖かそうなオ−バを持っていたが、私は自分の着ていた厚手の白いセ−タを脱ぎ彼女に「これを着てください。」と差し出した。 「いえ、結構です。大丈夫です。」と言いながらも両肩を抱えている。 「これから東京に行くのに、カゼをひいては大変だから。」 「でも・・・。」 「大丈夫です。こちらは風が来ませんしジャンパ−がありますから。」と言って娘さんの膝にセ−タを置き、私は網棚からキルティングジャンパ−をとって着た。 「すみません。」彼女はそう言ってセ−タを着こんだ。 野辺地、八戸で多くの乗客が乗り込み車内も100%の乗車率となった。 我々のボックスも娘さんの脇には中年の男性。私の横には若い女性がそれぞれ座った。少しの間4人とも無口であったが中年の男性が「東京までですか?」と私の横の若い女性に聞く。 「ええ。そうです。」 その女性が答えると次に私にも同じ質問をし、それから前の娘さんにも「おねえさんも東京ですか?」と聞く。「ええ。」 娘さんは相変わらず少し俯きかげんで短く答えた。 しかし、その男性の声がきっかけで娘さんを除いた3人は世間話を始めた。私は3人で話をしながらも前の娘さんの事が気になり、どんな事を話したのか全く覚えていない。 盛岡を過ぎるまで話していたが、いつの間にかレ−ル音を子守歌に寝てしまった。 宇都宮の少し手前で目が覚めた。中年の男性と若い女性は下を向いたまままだ眠っている。娘さんはずっと寝ていなかったのか、それとも早く目が覚めてしまったのか、窓に向かい、あたかも青森のことを思い浮かべるように窓に映る自分の顔を眺めていた。 「上野には誰か迎えに来ているんですか?」そう尋ねると「ええ、叔父さんが迎えに来てくれているはずです。」顔を私の方に向けながら答える。 「そうですか。環境が変わって大変ですけど頑張って下さい。」 「はい。」 「でもお盆とお正月には青森に帰れるからいいですね。」 「ええ、でも判りません。」 その娘さんの言い方が非常に寂しそうだったのが今でも鮮明に覚えている。何か特別な事情があって鎌倉まで働きに行くのだろうか。帰れない事情があるのだろうか。 勿論、その訳など聞かなかった。上野駅に近づいたのでメモ用紙に次のことを書いて娘さんに渡した。 《辛いことがあったら上野駅に来て下さい。そこには君のふるさとの雪を乗せた列車がいます。その雪はふるさとの臭いがするかも知れません。困ったことがあったら、ここに連絡して下さい。》と自分の連絡先を書いた。 自分でもキザな文章だと思ったが、彼女の姿を見ていると何とかしてやりたい気持ちで一杯だった。 彼女は黙って目を通した後、軽く会釈をしてバックの中にしまった。 車内のチャイムが鳴り、間もなく終着上野駅に到着するアナウンスが聞こえる。その声を待っていたかのように多くの乗客は立ち上がって網棚の荷物を下ろし始めた。 隣の女性と男性も荷物を下ろし我々に挨拶をするとドア−の方へ歩いていった。 急行“十和田5号”は青森から約12時間かかって、1969年1月3日の午前6時53分上野駅に到着した。 私は、娘さんの荷物を下ろしてあげ、自分のザックを背負い、娘さんの後から下車した。迎えの人が来ているか多少心配であったが、すぐ判ったらしく初老の男性が娘さんに近づき、二言三言挨拶をし彼女の荷物を受け取った。 娘さんは軽く私に会釈しその男性の後ろを追って行った。 後ろ姿が寂しそうに見えたのは私のセンチメンタルだったのだろうか。 列車から降りた乗客は、沢山の荷物を抱えて乗り換え口や出口へ向かっていく。その流れの向こうには青い車体の急行“十和田5号”が長い旅の疲れを癒すかのように静かに止まっている。 私は、列車の屋根に積もっている、少し汚れた雪の匂いを嗅いでいた。 【 終わりに 】 改めて当時の文章と写真を見ていると無性に懐かしくなり、もう一度同じ時期、同じ場所を訪ねたいたいと思い、1994年2月に息子と尾登駅へ、そして1996年2月に28年ぶりに友人と深浦へ行き、当時の旅館を見て懐かしい人とも対面することができた。 そして1998年の冬に陣馬に出かけてみた。電車の一番前に行き、当時宿泊した宿を列車から見たかったが、陣馬付近はルートが変わっていて、全く見ることはできなかった。今度は宿泊した温泉宿を訪ねてみたい。 さらに、あれから連絡などないが、急行十和田5号で私の前に座った娘さんに、もう一度会ってみたいと思う。今でも、窓から手を振る彼女の姿を思い出す度に、目頭が熱くなる。 生まれて初めて蒸気機関車の写真撮影旅行。それも冬の東北。すべてが初体験であった。 辛かった事。感動した事。悲しかった事。どれもがいい思い出である。 そして、この旅がきっかけで、夏の九州や、冬の北海道などへ日射病や凍傷にかかりながら、1976年3月2日に、北海道の追分機関区で蒸気機関車がなくなるまでの8年間、日本全国の蒸気機関車を追いかけ廻った。 その間、撮影した多くの写真、8ミリフィルム、録音テ−プなど、1つ1つ思い出や感激があるが、この初めての旅行が一番印象深い。 |