|
◆◆ ブラストの響きを追って(その3)◆◆
バックの音は、1975年12月に録音した夕張線のD51 貨物列車です。 項目をクリックして下さい。
【急行 おが2号】・【秋田機関区】・【833列車 奥羽本線】・【 2743D列車 五能線 】 【急行 おが2号】 待合室のアナウンスで臨時の“おが2号”の運転を知ったので、23時24分の臨時急行“おが2号”で行くことにする。 ホ−ムに出てみると10人位の乗客しか待っておらず、「よかった。臨時列車なので比較的空いているんだな。」とほっとした。 しかし、いざ列車が入って来て驚いた。空いているどころか、車内はいっぱいの人。この列車で行くと“おが3号”より1時間43分早い、6時53分に着く。“おが3号”も同じ混み具合だろうと判断し、無理して乗車することにした。 車内は土産物を持った帰省客でいっぱいで、デッキまで人が溢れている。無理やり乗り込み、やっと自分の場所を確保したがじっと立っているのがやっとである。 今夜こそどうしても寝ていきたいのだが、この混みようではとても寝られそうにもない。おまけにこのデッキでは、数人の人が一升ビンを開けて酒盛りをしている。既に酔っている人もいて賑やかである。大変な車輌に乗ったものだと後悔したが、もうどうする事もできない。 暫くすると、その中の学生らしい人が私に声を掛けてきて、「どこまで行くのか、どこから来たのか、学校はどこなの?」などと質問し、「まあ、長い旅だから楽しくやりましょう。」と自分で抱えていた一升ビンから酒を紙コップに注いでくれた。 眠くて仕方がないが、この調子ではとても寝られそうにないと観念し私も仲間に入ることにした。学生は駒沢大学商学部の3年生で、横手まで行くそうである。 その他、周りの人もふるさとへの土産物を持って、正月休みに帰る出稼ぎの人や学生が多い。久しぶりの故郷に帰るために会話も明るくはずんだ感じがするが、方言が多、私には殆ど理解出来なかった。 車内を覗き込むと座席は勿論、通路までいっぱいで通ることも出来ないくらいに混んでいる。 通路にいる人の多くは男性や若い女性である。年配の人や家族連れは早くから指定券を確保したのだろうか、暖かい座席で気持ちよさそうに寝息をたてている。 それにしてもこの列車は臨時のせいもあるが、やけに他の列車に追い抜かれる。そのたびに10分から20分停車する。まるで鈍行列車と同じである。 それに、この古い客車(形式は多分スハ32か33だと思うが)のデッキや幌は隙間だらけでドア−もきちんと閉まらない。その間から冷たい風や雪が時折舞い込んでくる。その雪が壁や足もとで白くこびりついている。 車内とデッキではまさに天国と地獄である。酒でも飲んでいなければいられない気持ちがよくわかる。 列車は何度も何度も停車し追い抜かれたり、上り列車と交換するために5分や10分ならまだしも、20分から30分も停車することがある。我々デッキにいるものにとっては辛い。 その上、ポイント故障で40分も停車したのには全く閉口してしまった。冬でなければホ−ムにでて足腰を伸ばすことができるが、この季節ではドアを閉め、じっとしている以外にない。 しかし、その停車時間が役に立つこともある。ある小さな駅で15分程停車した後、列車が発車してホ−ムの端の方を見るといくつか黄色く雪が溶けた部分がある。車内が混んでトイレにいけない人が窓から這い出してホ−ムの端に用を足したあとである。 私もある駅でドア−を開け雪の中で試みたがなかなかいい感じであった。 午前5時頃、横手の少し手前で少しずつ乗客が降り、空いてきたので車内の暖かい方に移ることができ座る事ができた。座るとすぐ寝てしまったらしい。 【秋田機関区】 ふと何かに当たって目をさますと車内にはゴミの他には誰もいなかった。 外をみると《あきた》の駅表示板が見える。あわててザックを持ち降りようとしたが頭が重い。 手に力も入らない。両手でザックを抱えるようにして外に出たが歩くこともできず側のベンチにドッサと倒れるように座りこんでしまった。 一緒にいた学生も他の乗客も何処で降りたか全く記憶にない。時計をみると9時10分。 予定より2時間ほど遅れて到着したのか、それとも長い間、到着していたにもかかわらず車内で寝ていたのかわからない。 しかし、1人で寝ていたのならば駅員が起こしてくれてもよさそうなものだが。 秋田についての第一声は、言葉にならない溜め息であった。 ホ−ムの目の前にD51、DD51があるがカメラを向ける気にもなれない。しばらく放心状態でいたが、やっとのことでザックを肩に掛け改札口を通りステ−ションビルに入る。寒くて辛くて長い夜汽車がやっと終わった。 待合室を捜し入ってみるが人でいっぱいであった。テレビではメキシコオリンピックの録画を放映しているが見る気にもなれない。やっと一番奥に空いている椅子を見つけドッカと腰をおろす。 側の売店には秋田の名物であるコケシ、杉細工、ナマハゲの人形などが販売されている。 売店から牛乳を買ってきてクラッカと、あずきのカンズメを出して食べるが途中で気持ちが悪くなってきたので止めてしまった。 疲れた。だるい。頭が重い。列車の遅れや、出発、到着の案内をする駅放送の声が頭に響く。 30分程そこにいて、やっと腰をあげる。自分の意志ではなく自然に体が動いていくような感じである。 外に出ると空はどんより曇っていて今にも雪が落ちてきそうである。体が自然と秋田機関区の方へ向いている。路面の雪が凍って滑りやすい。登山靴なので余計に滑りやすい。凍結した路面に慣れていないので気を付けなければならないと思っている時、見事に転んでしまった。 駅前の比較的人通りの多い所である。ザックを背って、登山靴を履いている者がコケテしまった。恥ずかしかった。周りの通行人は別に気にしている様子はなかったが、すぐに立ち上がり何事もなかったように歩きだした。 暫く行くと秋田鉄道管理局のビルが見える。列車ダイヤを送ってくれたところである。思い出してダイヤを調べてみると、ない。一瞬、顔が青ざめた。 さっき転んだ所で落としたのに違いない。慌てて戻ると果たして落ちていたのでほっとする。
再び戻り、奥羽本線の踏切りに差しかかると遮断機が降りてくる。秋田駅の方を見るとC11の牽く客車の出発である。急いでカメラを出し撮影する。 C11が通過するとすぐに羽越本線のD51の貨物列車が通過する。
約3時間程、彼等の姿を眺めて引き返すことにした。帰る途中、先程、煙室戸を開けてススを出していたD51104が準備を終わり待機線に出てきたので彼の顔をアップで撮影する。
【2743列車 五能線】 東能代駅を15時44分、20分遅れの2743列車は、左手に奥羽本線を見ながら右に大きく曲がり、大晦日の黄昏迫る北国の五能線を走り始めた。 キハ11−13の車内は、夕方のためか結構混んでいたが私は幸い座ることができた。 発車してすぐに寝てしまったらしく、暫くして前の席に座っていた女性に揺り起こされ、「この車輌はここが終点ですよ。」と言われた。慌てて外を見ると《岩舘》(いわだて)の文字が見える。 後部の車輌はここで切離しなのだろう。礼を言って、一度ホ−ムに出て前の車輌に移る。 東能代ではいっぱいであった乗客も、この先まで行く乗客は少なく車内はかなり空いたので日本海側に面した進行方向左側の席に座った。 車両はキハ22−340。外の気温とは違って車内は暖かく、自然と眠くなってくる。しかし、今度寝てしまうと深浦で起きる自信がないので日の暮れかかった北国、西津軽の土地を眺めていた。 五能線は青森県の西の外れ、日本海に迫った海岸段丘との僅かな場所を縫うように走っている。 途中の駅は殆どが無人駅である。北国の冬の夕暮れは早い。午後4時半なのに空一面を覆っている雲は濃紺色になっている。その色が積もっているというよりも、日本海からの強風で叩き付けられたような雪を青く染めている。その中に黒々とした枯れ木やススキ、岩膚がどこまでも続いている。 所々に黄色の裸電球が灯った数件の家並が、海と崖の間の僅かな平地に肩を寄せ合うようにひっそりと建っている。家並の後ろには黒くそして冷たい海が、北国の果てを思わす厳しい表情で水平線まで広がっている。 奥羽本線で話した横手の学生が、『冬になると雪で何もできなくなってしまうので冬眠同然の暮らしになる。都会の人には珍しいかもしれないが、自分にとっては雪は白い悪魔だ。』と言っていたのを思い出す。本当に大変な生活なんだろう。 2時間に1本の列車が唯一の交通手段だし、その列車も大雪になると運休せざるをえない。生活経験のない私には想像ができない。しかし、土地の人は明るい。車内でも大きな声で難解な津軽弁を話している。 私の斜め前の座席には、先程から若くきれいな女性が座って雑誌を見ている。秋田美人である。 暫くすると、その人の知り合いらしいおばさんが乗り込み、大きな声で話を始めた。どうも近所の人らしく、世間話をしているが方言、訛がひどく、早口で殆ど解らない。時々「わは−−−。わは−−。」といっている。 どうも「わ」は津軽弁で自分のことをさす言葉だと解ってきた。 日本語のような感じではなく、外国語を聞いているようだ。 暫く話し込んだ後、その若い女性が大声で笑い「うんだべっさ。」と言ったのには少々がっかりさせられたが。 列車は約2時間かけて深浦駅に17時24分、23分遅れで到着した。 |