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鉄道コレクション
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◆◆ ブラストの響きを追って(その1)◆◆
バックの音は、1975年12月に録音した夕張線のD51 貨物列車です。 【はじめに】 この文章は1968年の冬、私が初めて蒸気機関車の写真撮影をするために東北に行った時のものを綴った紀行文です。 1993年のある日、たまたま鉄道関係の古い資料を整理していた時、撮影をしながら書いた文が出てきました。それをワープロで書き直し、当時撮影した写真を挿入して小冊子を作りました。実際はA4版で30ページにもなりましたが、その文章と写真を掲載します。30余年前の状況が分かれば幸いです。項目をクリックして下さい。
【 序 】・【臨時急行 ばんだい5号】・【盤越西線 尾登駅】・【盤越西線 荻野駅】 【 序 】 物心ついてから鉄道が好きになり、HOゲ−ジの列車模型などを作って楽しんでいた。 中学を卒業する頃から蒸気機関車が好きになり、当時、私の住んでいた錦糸町には入れ替え用の8620型が働いていたのでよく行き見ていたものだった。 また房総方面には1日2往復のC57も走っていたし新小岩には大きな操車場があり8620・D51などの寝倉でもあった。 高校に入る時、新小岩にある学校を捜し新設校の都立小岩高校に合格することができた。この高校は新小岩操車場の近くにあり、屋上からは操車場の機関車が良く見えた。 高校を卒業後、父親がカメラを買ったのを機会にSLの写真を撮るようになり、総武線や新小岩機関区付近で撮影を始めた。当時、都会にはSLは殆どなく専門紙に掲載されているような風光明媚な場所をダイナミックに走るSLを撮るためには地方にいかなければならなかった。 大学の冬休みを利用して冬の東北行きを決意し撮影スケジュ−ルを立てた。 当時の秋田鉄道管理局から列車ダイヤも譲り受け、5万分の1の地図で地形を調べ準備を始めた。生まれて始めて見知らぬ土地への一人旅、それも冬。暮れなので帰省客が多いだろう。 予算はかなり厳しいので旅館には泊まれない。夜行にするしかない。切符はとれるか? どのくらいの寒さなんだろう? どんな装備をしていけばいいのだろう? 着替えはどのくらい必要なんだろう?いざ決めるといろいろな不安、心配がでてきた。 幸い、高校のころ山登りをしたことがあるのでそれを活用し、ザックにカメラ器材、着替え、コッヘル、インスタント食料を詰めこみ、靴は登山靴、さらに防寒用のオ−バシュ−ズも用意した。 切符は1ケ月前に東北の周遊券を購入。帰りだけの指定券は手に入れたが、行きの指定券は既に完売していたので着席券を手に入れた。 【臨時急行 ばんだい5号】 1968年12月29日、出発の日。通常、東北方面行きの列車は上野駅からの出発だが、盆暮れの臨時列車は上野駅のホ−ムがいっぱいになるため、品川駅から出発する場合もある。 今日も、臨時急行“ばんだい5号”は品川駅発である。品川駅は帰省客とスキ−客で混雑しているが、私は着席券があるのでそんなに慌てなくても済む。この着席券は、指定券と違って50円で購入し、座席の指定はできないが自由席には必ず座れるといった券である。 指定券が完売した後に発売され、予定数になると終わりである。従ってこの券を購入するのも早い時期に購入しならない。 23時21分、品川駅の9番線から6203M列車、臨時急行“ばんだい5号”会津若松行きは、超満員の乗客を乗せて発車した。私の乗車した車両は455系の9号車(クモハ455−1)である。 明日が早いので早く寝たいが、周りの帰省客やスキ−客が騒いで寝ることができない。年に一度の帰省。そして正月休みを利用しての旅行。少々の賑やかさは仕方がない。しかし、彼らは明日の晩は寝ることが出来るだろうが、私は明日も夜行なのだ! 黒磯で直流から交流の変わるために3分の停車。外はまだ雪はないが大分寒そうだ。しかし車内は暖房が効きすぎて暑いくらいである。郡山近くになると曇った窓越しに、雪がうっすらと田んぼの隅に少しづつ見え始めた。空を見ると星が寒々そうに瞬いている。 郡山を過ぎ、東北本線から磐越西線に入ると空も曇り、雪がちらつき始める。窓ガラスについた水滴も凍り始め山間部に入ったことが分かる。その後、雪は次第に激しくなり磐梯熱海付近では雪のため信号機が故障し列車は一時立ち往生。そのため猪苗代駅に5時04分に到着。23分の遅れである。 満員であった車内も、いつの間にか空いてきた。あと30分程で終着、会津若松である。車窓の外は真っ暗で何も見えず、ただ列車が吹き飛ばす雪煙りが後ろへ飛んでいくのが見えるだけである。 5時32分、会津若松に22分遅れで到着。殆ど車内で寝ることができなかったので少々頭が重い。ホ−ムのアナウンスは乗り換えの会津線、只見線、磐越西線の案内をしている。多くの乗客もそれに合わせるかのようにそれぞれのホ−ムに向かう。私は、すぐ隣のホ−ムに停まっているディ−ゼル列車、221D新潟行きに乗車した。 5時42分、まだ暗い会津若松を発車。車内は先程の列車とは違ってまだヒ−タが効いていないため非常に寒い。乗客も少なく電灯も白熱電気で暗く、それが一層寒さを感じさせる。 【盤越西線、尾登駅】 会津若松から45分程で、最初の撮影地である尾登(おのぼり)駅に定刻の6時28分に降りる。ホ−ムには雪が15センチ程積もっていたので雪の感触を楽しもうとしたが駅を見て驚いた。駅など体裁だけで小さな待合室と便所だけがあり、駅員も犬一匹もいない無人駅であった。 駅員もいないくらいだから改札口も出札口もない。この辺はは全く土地勘がなく地図を見て、近くに阿賀野川の鉄橋があるのでこの駅で降りてみようと思っただけである。 周りは白一色で山で囲まれた駅周辺には人家の電気らしいものが、いくつか見えるだけである。生まれて始めての無人駅。それも、雪の降る夜明け前である。少々寂しく悲しくなってきた。一緒に降りた数名の客は、いつの間にか電気の灯る民家の方へ消えていってしまった。 ここの待合室には勿論スト−ブなどなく隙間風がひどく寒い。温かい味噌汁と温かい布団に入って寝たい。 少々いきなり冬の撮影を決行したことを後悔した。 体を暖めるためと朝食のためインスタントラ−メンを2つ作って食べることにした。待合室の隅にある固く冷たいベンチに座り、水筒に入った水をコッヘルにあけ固形燃料に火をつける。青白い炎をみているだけで不思議と寒さが和らぐ感じがする。白い湯気をあげるラ−メンをすすりながら外を見ると、真っ黒な空から藍色の空に変わり、いつの間にか明るくなってきた。遠くの東の空の一部には朝焼けも見えていた。 「少しは天気になるかな」と思ったのも束の間で、たちまち黒い雲が哀れな旅人のいるこの無人駅周辺を覆い、小雪が舞い始めた。おまけに北風も強くなってきた。 なんとも心寂しい。付近にある数件の民家はまだどこもピタリと戸を閉ざし、物音一つしない。寂しさを紛らわすためにラジオを出してみるが、なかなか同調しない。やたらに朝鮮放送が入る。やっと山形放送とNHKを聴くことができたがこの寂しさを紛らわすにはほど遠いものであった。 雪が次第に激しくなり吹雪になってしまった。本来ならば2キロ程先まで行くつもりであったが土地感がなく危険なので中止し、駅周辺で撮影することにする。 7時10分頃、遠くで汽笛が聞こえ、ブラフト音もかすかだが耳にすることができる。東京を出て始めて聞く音だ。急いでカメラを準備し待合室を飛び出した。 いつの間にか雪はやんでいたが風は相変わらず強い。ホ−ムの上で待つことにする。 5分位すると、水墨画のような山かげからSLが現れた。モノクロの世界にSLの黄色い前照灯が小さく輝いて見える。その光が次第に大きくなる。夢中でシャッタ−を切る。 金色に輝くD51435のプレ−トをつけた蒸気機関車が絶気運転でこの小さな駅を短い汽笛を鳴らして通過していった。
待合室に戻って暫くすると、また雪が降り始め風もでてきた。待合室にも降りる場所を間違えた雪が時折冷たい風と一緒に舞い込んでくる。寒くて手足が痛い。ラジオでは大雪注意報が出された事を放送している。 次の列車に備えてオ−バ−シュ−ズを履く。今度は駅のホ−ムではなく駅から少し離れた所から撮影するつもりだ。 7時40分頃になると、下り243列車に乗る人、3〜4人がこの待合室に入ってきて私を物珍しそうに眺めている。私の姿はまるで冬山登山でもしそうな格好であるが,この付近には登山をするような山はない。従って、彼等にとっては不思議な格好だと想像できる。 やがて、C11の牽く243列車が入ってきた。列車といっても客車は1両だけである。今度はホ−ムの端から雪の上に飛び降り、進行方向にしばらくいった所にカメラを構える。 降りる人は誰もいない。待合室にいた人が足早に車両に乗り込むと短い汽笛を鳴らし発車した。客車が1両と少ないため加速も早く、すぐ視界から消えていった。
待合室に戻る前に裏にあるトイレに寄る。地方のどの駅にもある木造の小さなトイレである。 トイレの入口には青地の板に白ペンキで「便所」と書いてある板が掲げてあり、その文字の下には「LAVATORY」の英語まで書いてある。果たしてこのLAVATORYを利用する外人客が、この駅に降りるのかと疑問を持つと同時におかしくなった。 用を済ませ、次の列車が来るまでの約40分程、再び寒々しい待合室で待つことにする。 8時21分、会津若松行き上り224列車をC57が牽いて到着。雪がひどいのでホ−ムで写真を撮ることにする。 車輌は通勤通学のために4両に増えている。乗降客も幾らか多くなり車内から車掌が出てきて切符を集める。この224列車は、回送用のC11を後部補機につけていた。
224列車の次に8時53分、C57の牽く下り223列車を撮影。9時19分通過のD51854の牽く貨物列車をホ−ムから少し離れた所から撮影するが雪がひどく列車が良く見えない。 10時10分、下り急行“あがの”913Dが通過し、同33分にはC57が5両の客車の牽いて225列車が到着。雪は少し小降りになったので、今度は駅から100m程走り、1m程積もった雪をかきわけ土手の下にカメラを構え発車を待つ。C57の安全弁からは白い蒸気が吹がっている。 やがて、ブオ−!。灰色の空を引き裂くような汽笛を鳴らすと、ゆっくり動きだす。力強いブラフト音がこの静かな白い雪国を震わせる。黒煙と蒸気が天を焦がす。白いドレインが黒い機関車を包む。力強く、そしてゆっくり加速していく。 機関車が目の前を通過する時、機関助手が「ごくろうさん」と声を掛けてくれた。こちらも凍ばった顔で笑って手を振って応えた。 列車は心地良いレ−ル音をさせ、白い雪の中を小さな赤いテ−ルライトと煙りの臭いを残して、山のかげへと消えていった。
【盤越西線 荻野駅】 次のD51の貨物列車を撮影する頃には、雪も風もひどくなってきたので、予定より早く上り226列車で1つ手前の荻野(おぎの) 駅に行く。いつまでもこの駅にいたのでは凍えてしまう。 車内に座ると、暖房のせいか急に眠気と疲れが出てきた。雪の中での撮影の厳しさを感じると同時に、これからの工程が思いやられる。暖かい車内で寝ていたかったが、約5分程の10時59分に荻野駅に到着。この駅はすれ違い駅なのでホ−ムも長く、駅員も10名位勤務している。
駅前には農協、郵便局もあるし、一番有難かったのは待合室に赤々と燃えるスト−ブがあることだ。そのストーブの近くで土地の子供が2人でマンガを読んでいたが、私が珍しいのかしきりに私を眺めている。 荻野駅から雪の中をしばらく会津若松方面に歩き撮影地を捜すが雪と風がひどく、おまけに雪が深く思うように歩けない。やっと、駅から100m程の所にあるトンネルの近くまで行きトンネルを出る列車をねらう事にした。 11時30分ごろ、C57の牽く下り227列車を撮影するが、駅に近いために煙りは殆どでていなかった。 結局、1列車だけの撮影で再び荻野駅に引き返し、13時26分の228D列車で会津若松駅に向かった。 山都(やまと) を過ぎるころから雪もやみ、眩しい太陽の光も射してきた。列車は真っ白な田園風景の中を会津若松に向かっている。 会津若松では機関区を見学させてもらうつもりだ。
【1994年、再び尾登駅へ】 改めて当時の文章と写真を見ていると無性に懐かしくなり、もう一度同じ時期、同じ場所を訪ねたいたいと思ったがそうもいかなかった。 しかし、JR東日本から“親子ス−パパス週末学校”という切符が発売されていた。この切符は小学生以下の子供1人と親1人が一緒に旅行すると、東日本のJR線が土曜日、日曜日に限り18、000円で廻れるといったものである。 1994年の2月11日から2月13日まで会社は3連休であったし、12日は第2土曜日で小学校も休みである。さらにその日は息子の11才の誕生日でもある。 以前、息子と雪国に連れて行く約束をしていたので、この機会に、初めて地方の蒸気機関車の写真を撮影した盤越西線の尾登駅まで行こうと思い2月11日の朝、息子を連れて出発した。 東北新幹線で郡山まで行き、快速に乗り換え会津若松駅に行く。会津若松から盤越西線で尾登に向かうが列車は昔と違って新しいカラフルなワンマン車両である。出来れば当時そのままのディ−ゼル列車に乗りたかったが仕方がない。息子は列車のドア−の側で駅の売店で買ったインスタントラ−メンをすすっていたが私は運転席のすぐ後ろで当時を思い出そうと前方を眺めていた。 荻野駅を過ぎ、カ−ブを曲がると尾登駅が見えてきた。 しかし何か感じが違う。列車が駅に近づいてガッカリした。駅舎?が新しくなっている。 駅そのものの大きさは変わらないが駅舎と便所がコンクリ−ト製でクリ−ム色の塗装がしてある。モダンな感じで26年前の面影は全くなくなっていた。しかし、周りの民家や山の景色、雪景色は昔のままである。 駅ホ−ムから見える正面の雪景色。レ−ルの先にある山々。どれもが昔のままであった。懐かしかった。
当時、気が付かなかったが駅前に小さな店があるので昼食を買いながら駅のことを尋ねることにする。 息子が食べるインスタントラ−メンにお湯を注ぎながら店のおばあさんは2年前に駅が改築されたこと。JRでは駅の便所を取り壊そうとしたが土地の人が反対し、存続が決まったことなどを聞かせてくれた。 息子はラ−メンとお菓子、私はお酒とツマミを買って待合室に戻り、昔のようにバ−ナを出して酒を暖めた。 待合室の中は建物が新しいせいか、昼間のせいか、はたまた息子と二人のせいか、当時より暖かい服を着ているせいか、気温が当時より暖かいのか、26年前の寒さは感じない。 次の列車まで2時間程あるので私はホ−ムに出たり、周りを眺めながら当時を思い出していた。 息子は、勿論私の気持ちなど分からないし蒸気機関車も興味がない。ホ−ムから線路に飛び降りたり、レ−ルの向こうの自分の背丈ほどに積もった雪の中で奇声を上げて遊んでいた。 その晩、会津若松に宿泊し、翌日、豪雪地帯を走る只見線に乗った。 当初、C11を追いかけて撮影した会津線の会津湯ノ上駅に行き、それから只見線に戻って帰る予定だったが只見駅前で雪祭りが開催されていることをテレビニュ−スで放送していたので、予定を変更して朝早い列車で只見に向かった。 只見線も昔、何度も撮影に通った線である。会津坂下、会津柳津、滝谷、会津檜原、会津宮下、会津川口など懐かしい撮影場所を眺めながら3時間ほどで只見駅に着いた。 駅前の雪祭りを見学する。雪が降る中、息子と雪像を見たり、熊汁を食べたり、雪のすべり台で1時間ほど過ごした。 再び、只見駅から小出経由で新潟に行き、上越新幹線で東京に戻ってくると東京は25年ぶりの大雪であった。 |